「嵐で上空1万メートルに巻き上げられた

 女性パラグライダーが生還」

ウィスニエルスカ選手は、今週オーストラリアで行われるパラグライダーの世界選手権に備えて14日、同国東部で練習をしていた。飛び立った時は天候はほぼ完璧だったが、90分ほどして突然、嵐に見舞われ、上空高く舞い上げられた。
 同選手は、「そこらじゅうで雷の音がした。暗くて、何もかもが凍っていた。どうすることもできず、ただ祈るしかなかった」と語っている。同選手は1分間に約400メートルの速さで上空に巻き上げられ、気を失った。気がついた時には高度6900メートルのところを流されていて、体やパラグライダーは氷で覆われていたという。

マイナス50度の温度に耐えて同選手が地上に戻った時は、体は氷で覆われ、凍傷で黒ずんでいた。計器は、同選手が最高で9946メートルまで上昇したことを示していた。

同選手の異常な体験は、たとえて言えば、15分間で世界最高峰のチョモランマ(エベレスト)に登るようなものだという。

同じ嵐に襲われて42歳の中国人選手が体温の異常低下と酸素欠乏症のために死亡しており、ウィスニエルスカさんは「誰に感謝していいのか…。天使にかな」と話している。死ぬほどの体験をした同選手だが、もし傷が回復すれば同選手権に出たいと話している。


ん~、凄い。

本当に誰にも経験できない事を経験した彼女。

よく体がもったなと。

何から何まで、奇跡的だ。

一瞬で目の前の光景が変わってしまい、

空の上へ行けば行くほど命の危険にさらされ、

逃げ場のない状況。

極限状態。

こういった事を経験し、

そして生きて帰ってこれたというのも、

ある意味奇跡だ。

まさに奇跡づくしの奇跡フェスティバル。

これを奇跡といわずして、何を奇跡というのか。


こんな短文で、奇跡という言葉を

これほどまで乱射してしまう自分もどうかと思った、今。





今度、服何買おうかなと、

ネットショップサーフィンしていたら、

もうこんな時間になっていた。

明日はちょっと早起きして勉強しよう。


そういえば、

今日某大手ビデオレンタル店○オにて、

ゲームを一本売りにいった。

少々お時間かかりますが、

 よろしいですか?」

といわれたので、待つことにした。

待つこと10分、

それから20分、

・・・・30分。

おいおい・・・。

それから40分

時間がないのでもういいです。」

と言いにいったら、

店員さんが何を聞き間違えたのか、

「はい、少々お待ちください!」

・・・!?

だから時間がなくて

待てなくなっちゃったから、

返してって言っているのに


順番を飛ばして自分の分の

買取作業に取り掛かりはじめた。

「あらあら・・・そんな感じに受けちゃったか・・・。」

メンドクサイから、まぁいいや テヘッという感じで

その場に立っていた。

「はい、500円になります。」

・・・もうどうでもいいや

「分かりました。それでいいです。」


・・・・40分待った挙句のワンコイン、500円玉。

しかも、何故か頼んでもいないのに、

勝手に作業して、完全にテンパっている店員さん。

今頃は、ぐっすり寝ているのでしょうか。

お疲れ様でした。


時に、

何かについてこう考えているのは

自分だけではないかと思う時がある。

しかし、それは自分だけではなく、

他人も少なからず考えていることかもしれない。

気づいていないのか、

それとも知ってそうしているのか。

それは口に出す事ではないかもしれない。

どんな些細な事であれ、

どんな大げさな事であれ、

そう考えているのは自分だけだろうなと

思う時がある。

そう考えているのは自分だけと

観点を変えてみると、

他人はそう考えてはいないということだ。

それは自身であるという、

希少だという意味も含め、

「誇り」として持つべきものだろうか。

しかし、

色々な本を読んでいると、

大体自分の考えていた事を

より深く、表現を変えて文章となって

目に入ってくる場合もある。

自分の知の未熟さを感じる時もある。


今の自分は、

その「誇り」と「未熟さ」との中間にいるような、

そんな気がする。


我ながら、

なかなか訳の分からない事を考えているなと

思った、今。


ヤフートップに

プロレスラーのグレートムタが

花粉症にかかって毒霧が使えないかも?

というニュースが出てしまう今日このごろ。

自分もうすうす感じていたが、

花粉症にかかってしまったかも。

鼻水はそれほどでもないが、

寝起きに目がぱっちりとあかない。

そしてかゆい。

これは花粉症と症状が似ているなぁと

思っていたが、

まだ時期的には早いし違うか・・

と思いきや、

ムタがそうだというので、

きっと花粉症なのだろう。


これ以上ひどくならない事を祈って・・・




昨日図書館に行ってきて、

ふと手にとった

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ

ダイアナ・ウィン ジョーンズ,
Diana Wynne Jones, 原島 文世, 岸野 あき恵
ダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジーランド観光ガイド


ぺらぺらと流し読みをしてたら、

これがなかなか面白そうだったので、

かりてきた。

ジョーンズの名前は初めて知ったのだが、

何やらあのジブリの

ハウルの動く城の原作者だった。

あの映画はまだ観ていない。

彼女の書籍を検索してみると、

センスのいいタイトルが並んでいた。

まさしくファンタジー作家。

ファンタジー以外も創作しているみたいだが、

なかなかの人だなと。


ところでこのファンタジーランド観光ガイド。

何か辞典のようなパンフレットとなっていて、

ファンタジー世界には欠かせないものたちの

説明が索引で書かれている。

読者がツアーのツーリストとなって、

そのガイドがこの本という設定になっている。

後にこの本を基盤として

ひとつの物語を創ったジョーンズ。

なかなか抜け目のない人だなと。

といってもこの本自体、

決して堅苦しいものではなくて、

「そうそう!」と

思わず笑ってしまう箇所もたくさんある。

ユーモアがあってセンスがあってと、

とても面白い本だ。

まだ全部は読んでいないが、

「色彩」で調べてみると、

これがまた面白かった。

要するに「ファンタジーの定番」を

ちょっと馬鹿にしてるのか

真剣に伝えようとしているのか

独特のユーモアがあって面白い。

めったな人には創れないだろうなぁ~と

半ば感心してしまったほどだ。


発想の柔軟さと、お茶目さ。

ユーモアだったりセンスだったり。

物語ってそんなに堅苦しくないものなんだと

言っているような、そんな気がした。

ひとつの世界にはそれぞれルールがある。

行ってみればそのルールの中での冒険。

社会では法律があって国の歴史があって、

そのルールの中で生きている。

歴史にもルールがあるし、法律にだってルールはある。

そのルールが斬新であっても

既存のルールから外れて過ぎていたり、

センスのないものであればあるほど

つまらないものになってしまうんだなぁと

またひとつ勉強させていただいた。



世には色ぉんな言葉で溢れている。

色ぉんな言語があって、

その国々でしかありえない表現があったり。

それはその国の長い長い歴史や宗教感情、

精神から成り立っているものもある。


昔から知っているというか、

日常会話で使っているようなある言葉。

それらを完全に流し気味にしながら、

ニュアンス的に伝わってしまう口語、人との会話。

けれど、そのひとつひとつの言葉には歴史があり、

意味がそれぞれある。


「象徴」という言葉を考えた時に、

そう思った。

漢字ってその媒体自体に意味が含まれていて、

とても視覚的だ。

逆に英語はとても思考的だなと。

それがこの二つの言語を使う民族の

感性的な違いなのだろうか。

そういえばその昔(漠然としすぎだが)、

「山」というものに対しての印象が、

西洋と東洋ではまったく異っていたという話がある。

西洋は山よりも森に幻想的な思いを抱いていたらしいが、

東洋では森よりも山にそういった思いが働いていたらしい。

ようするに、西洋では山は現実的なものとして、

東洋では森が現実的なもの、身近なものとしてあったという。


これも何か、そういった歴史?世界観の違いがあって、

とても面白いなと思う。

今自分の前、

そこにあるもの、見えるものが全てではない事を

知らされる話のひとつだと思う。


象徴についての勉強をしてみようっと。


本当の意味で「あなたはだれ?」と、

思わず聞きたくなってくる人たち。

答える事ができたら、

きっとその人は大人なんでしょう。

観た。

好きでよく観ている番組だ。


今回は、

石井裕(いしい・ひろし)さん。

マサチューセッツ工科大学メディアラボ教授。
北海道大学工学部電子工学科、同大学院情報工学専攻修士課程修了。

80年、電電公社(後にNTT)入社。

86年~87年、西ドイツのGMD研究所客員研究員。
88年よりNTTヒューマンインターフェース研究所で、CSCW、
グループウェアの研究に従事。92年、工学博士。
CSCW、CHIなどの国際会議の常連となる。93年から1年間、
トロント大学客員助教授。95年、マサチューセッツ工科大学準教授。
メディアラボ日本人初のファカルティ・メンバーとなる。
2006年、国際学会のCHI (コンピューター・ヒューマン・インターフェース) より、
長年にわたる功績と研究の世界的な影響力が評価され
CHIアカデミーを受賞。


彼の研究員育成法。

追い詰める。

アイディアを持ち込んできたらWHY?を繰り返す。

答える事ができないという事は、

それはその自分のアイディアを練りきれてないという事。

自分で自信がないものをどうして議論の対象にできるのかと。

何か、

自分の弱い所を指されたようで、

新人研究員(生?)もちょっと涙目に。

世界でTOPクラスのラボに入った研究員も、

自分に、そして自分のアイディアに

絶対的な自信を持っているのだろうが、

その頭脳を持ってしても足りないものはたくさんある。

「よりいいものに昇華させる」という気持ちだ。

その物事に対して、もっと考えられる。

もっと謙虚に、そして思考の余地はあるという事だ。


環境は違っても、

これは自分にも活かせるものであると思った。

ある意味、

自分の先生的な位置として、

しばし石井さんを見ていた。

自分の場合は足りないものが

他人よりも倍以上はあると感じている。

自分自身に対して、

何のために?どうして?というWHY?を繰り返されても

すぐ答えれないという事は、

それはゴミだということだ。

まだ足りないもの。

まだまだ足りないと感じているもの。

それが自分で分かっているなら。

あらゆる観点、方向から見つめる思考が

まだ足りない。


それにしても、この石井さん。

とてもいい顔をしてらっしゃる。



一日のうちに何かしら

どんな小さな感動でも感じることができたら、

それは、その日を過ごした甲斐があったような

気持ちになる。

何もないと感じるような気したら、

映画を観たり、本を読んだりすると

何かしら、必ず自分の中で小さな感動を見つけられる。

しかし、

それすらもしようとしない人、

小さな感動を得るのが面倒くさいと思う人は、

きっと

とても面白くない日を過ごしているだろう。

そして、

小さな事に感動できない人は、

大きな感動もさほど感じれないだろう。

感性的に、

極めて女性的なものであるが、

それはとても大切なもののような気がして

ならない。

たとえそれが「繰り返し」であっても。


経つのが最近本当に早く感じる。

以前の同じ一週間とは、

まったく時間の感覚が違ってきている。

それだけ充実しているのだろう。

何か毎日身になっている事が何かしらある。


この時間の感覚って一体何なのだろうか。

一週間という時間の計りを度外視して、

一日二十四時間という計りを度外視してみると、

肩の力がスッと抜けるこの感覚。
(まぁ、今は以前よりも余裕があるからだろうが)

所詮、時間の概念も人の頭で考えて

作り上げているもの。

そういう風に生まれた時から教育されてきて、

体に馴染まさせられて、

それ以外の概念はないと骨の髄まで思い込ませる。

これはこうだから、こうしなくちゃいけない。


それは決して本能ではない。


法律を守る本能もなければ、

時間から逃れられないという本能もない。


何かを「知ろう」とする時、

それはその時点で

人々の作り上げたものに触れるという事だ。


ただ一週間が早く過ぎるなぁと考えただけで、

思考回路がこんな方向まで来てしまうとは、

人間の頭って不思議この上ない。


記憶と欲と思考の関係についてどこかに本ないかな。

これは心理学になるのかな?


さ、飯食って寝よ。